Romantic Agony

この度、parcelでは佐宗乃梨子の個展を開催いたします。本年2月に九段下・科学技術館にて行われたアートイベント EASTEAST_Tokyo 2023にて高さ3mを超える大型作品を発表して以来、parcelからは2度目の作品発表となります。

佐宗乃梨子はガラスや金属といった可塑性のある素材を用いて、身体の物質性を主題とした彫刻表現をする作家です。日本書紀に描かれている黄泉の国から怒りを顕に姿を表すイザナミの物語を題材とした大作 “youtopia”をはじめ、神話やゾンビといった死生観に関わる架空の存在を主なモチーフとしています。ステンドグラスの手法を用いた佐宗の彫刻には細密までこだわり抜かれたディティール、手指で造形し素材の厚みを操作することによって生み出されるガラスの繊細なゆらぎと同時に、稜線を縁取る金属の力強いラインや時に正面性の強いフォルムを取り入れ荘重さが同居しています。

youtopia, 2021, mixed media

本展にて発表する大型作品は、まだ古典絵画が主流だった時代にマネが現実社会の裸婦として描いた「オランピア」、その古典的な題材である亡骸を抱く聖母子の姿を表した「ピエタ像」から着想を得ています。中空の薄い殻のような形状は魂の器としての肉体の物質性を顕にするとともに、佐宗はガラスの透過性を活かして作品の内に光を取り入れることで、彫刻の持つ物理的な量感、素材の鈍重な質量を解放しています。山のような形状の抽象的な存在に抱えられている女性は身体に蛆が湧きながらも視線はしっかりとこちらを捉え、薄闇の中に鮮やかで幻想的な光を纏い、不思議な存在感を放ちます。
ワイン瓶や色ガラスを素材にした小型の作品シリーズでは、ギリシャ神話をはじめとした古典彫刻や、物語性を想起させるようなエロスが題材となっています。ガラス鋳造の特性を生かし、原型に残る手指の痕跡、不完全に鋳造されることで偶発的に作られる有機的なかたちによって艶かしさは強調され、その独特なアンバランスさとガラスの表情によって、この現実世界から浮遊し時間性から放たれたようなイメージを作り出しています。

「どんなに文明が進化しても、人間の営みは肉体に縛られている。肉体が性に、性は生に繋がり、それが数珠つなぎのように生命が紡がれている。宇宙は膨張と収縮をくり返して何回も同じサイクルを繰り返しているという話を聞いたことがある。自然が循環するのと同じように、次の世界や次の宇宙も存在するかもしれない。」と佐宗は語ります。

紀元前に生きた人間が紡いだ神話、絵画に描かれた歴史上の物語、現代の娯楽映画として親しまれるゾンビまで、これらは時代や場所を超えて、現実世界における苦悩、死・生に対する問いや祈りから生まれた架空の物語です。文明が発達し様々な疑問が解き明かされた現代でもなお、神話が紡がれた時代と変わらずに人間は自然の大きな営みの中に物質としての身体を持って生まれ、苦悩し、ユートピアもしくはディストピアを空想せずにはいられません。現実に直面することで空想が生まれ、空想することによって近づくことのできるリアリティがあるように、これらは対なるようでいてその境界線は曖昧なものです。リアリティとロマンを繊細に交差させ、その狭間を行き来するように彫刻する佐宗の世界観を是非ご堪能ください。

恋人たち, bottle glass, 2020

Echo Windows

グループ展 Echo windowsに寄せて

相変わらずグラフィティを描きながら街を徘徊している。
まだまだ自分の見た事がない、もしくは知らない面白い出来事、人や物に偶然出会えている事を嬉しく思う。全ては街が解決してくれて、悩んだことがある時は街に出てひたすら歩きグラフィティを描く事にしている。
そうしてここ数年はそういう瞬間を作品というモノに落とし込む事を続けている。

自分にしか見えていないような変な人、時間の止まったような場所、いつからそこに置いてあるかわかないゴミ、謎の匂いや音、自分しか来てないであろう空間。

今回の展覧会に声を掛けさせてもらった4人の作家からも同じような事を感じられる。
国や性別、世代も作風もバラバラだけど作品にはそういった瞬間がある。

自分にしか見えていない線や図形、偶然できたズレや痕跡、作品から見えてくる手触りや聞こえてくる微音やゆっくり流れる時間、自分しか知らないであろう気持ちのいい曲線。

みる人によってはわかりづらく、ただ個人の美学にしかすぎように感じるが、そういう瞬間や物事を知ったり、感じれるようになることが生きていく事をほんの少しだけ良くしていくのだと思う。

DIEGO

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この度parcelでは昨年弊廊で個展を開催したDIEGOによるキュレーション展「Echo Windows」を開催いたします。本展では、平面表現を主軸に置きながらも、画家やコンテンポラリーアーティストという言葉には括れない活動をする、作品スタイル、拠点、年齢などの異なるバックグラウンドを持つ5人の作家が集います。

DIEGOは街中で何気なく目にするモノをユーモラスに擬人化したキャラクターなどを抽象的に描いています。スタイルや手法のみならずグラフィティの価値観は作品の核となっており、ビルの間や空き地など多くの人に見過ごされるような「都市の隙間」、そこにある道具や打ち捨てられたようにただ存在している物などはインスピレーション源のひとつです。

installation view of My Social Ladder, solo exhibition 2022, PARCEL

染色家の宮入圭太は、布や和紙に型紙と糊を用いて染色する型染めの手法で制作をしています。民藝思想はもとより、90年代に熱中したグラフィティや、現代美術など様々なカルチャーや美学に基づいた作風、ユニークで遊び心のあるモチーフや独学で身につけた手法を取り入れた宮入の表現は、近年国内外で注目を集めています。

中島あかねは主に水彩、アクリル、クレヨンなどを用いた表現をする作家です。線を引く、色を置くというシンプルな行為を重ねることで、身近にありながらも日常生活においては見落とされるような抽象的感覚や無意識的領域を探るようにして制作・発表を続けています。

Akane Nakajima, acrylic, medium on panel, 2023

金沢を拠点とするLAKAは、グラフィックやインテリアのデザイン、また、金沢のインディペンデント アートスペースNNの運営に携わりながら、作家として活動しています。近年続ける「FLAT PLATE」シリーズでの表現において、文字という抽象的・記号的なフォルムをさらに解体し、断片化する、連続させる、削る、塗り重ねるというプロセスをパネルの画面上に重ねることで、かたちを探る行為そのものが絵画表現として現れています。

1994年生まれのTyler G Ormsbyは、サンフランシスコのベイエリアに在住する作家です。主に油画、ドローイングを中心に陶芸などジャンルやスタイルに囚われず制作を続けています。想像の余地を残した象徴的なワンシーンのような風景、無骨とも言えるような力強く絵具が重なり合う抽象絵画などを制作し、精力的に発表・活動の場を広げています。

Tyler Ormsby, The exhausted jester, oil on canvas, 2023

この5人の作家の作品の形式やスタイルは全く異なるものですが、制作プロセスにおいて手作業や道具によるブレやエラーを作品に取り込む直感的・身体的感覚や、計画とは対にある素朴さや無作為性などが彼らの作品に共通した重要な要素となっています。佇まいの美しさを見つめ精神性を追求する5人の作家の持つ美学や響き合いを感じていただけましたら幸いです。

IT’S AN ENDLESS WORLD!

Lucas Dupuyは1992年ロンドン生まれの作家です。絵画・彫刻表現を軸に、近年ヨーロッパを中心に精力的に発表を行っています。デュプイは自然風景、建築、写真、記号論など多様なテーマを探求し、文字や建造物・自然などの表象から巧妙に造形を抽出して、作家自身の心象風景とも言えるような独自の平面表現を構築しています。日本では、これまで2020年にOIL by BTで行われた3人展“Parallel Archaeology”に参加し、作家自身が過去に持っていた失読症の体験がインスピレーションの出発点となっている、より記号的・建築的要素の強いペーパー・コラージュシリーズを発表しました。また、2019年に制作した壁画は現在も天王洲・ボンド・ストリートに残っています。Dupuyはその表現において自然と人工物・有機物と無機物といった対比的な要素を交差させながら、時間の流れや現象の不確かさを見事に作品として昇華させています。本展では、薄い絵の具のレイヤーを多層に重ねることで霧や光の移ろいを表出させたようなキャンバス作品、また、彫刻されたパネルにデジタルコラージュを重ねたプリント作品を中心に発表いたします。


Lucas Dupuy, “South Circular 1”, Acrylic on canvas, 25 x 85cm, 2023

アメリカの作家であるエリック・デイヴィスは1998年にテックグノーシスというコンセプトを思いついた(*1)。彼のカルト的な著書は、秘教的でスピリチュアルなものがデジタルやテクノロジーとどのように絡み合っているかを考察したものだ。彼は電気と錬金術、仮想現実とグノーシス神話、儀式とプログラミングの歴史的関係を探求した。ルーカス・デュプイの作品は、神話的世界の細部が吹き飛んだような、神秘的で抽象的な中に存在している。

デュプイの作品は、エアブラシで描いたドローイングをアクリルで再構築した大規模なものから、ゲームのスクリーンショットや抽象的なプリント、コラージュの要素を重ねた、より親密な建築的作品まで多岐にわたる。彼のインスピレーションの一端は、カルト的なコンピューターゲーム「Half-Life 2」のセーブ・スポット/セーフ・スポットにある。多くのロールプレイングゲームのように、穏やかな場所がある。ここでは時間がゆっくりと流れ、物語の激しさは静止し、ゲーム内の美的要素は軽減されている。デュプイの作品は、このようなデジタル空間の雰囲気を、絵画的で、時には彫刻的なものに変えている。さらにリアルなものとして。

 デュプイの展覧会とそのタイトル「It’s an endless world!」は、ウイルス感染後の終末的な世界観を描いた遠藤浩輝の漫画『EDEN』(*2)からもインスピレーションを得ている。彼のインスピレーションのように、この作品は光と闇、感情の起伏、心理的な動揺、そしてすべての物語に組み込まれた救済に触れる作品である。
 – 文:フランチェスカ・ギャバン

*1 「テックグノーシス:情報化時代の神話、魔法、神秘主義」 エリック・デイヴィス著、1998年発行
*2 「EDEN 〜It’s an Endless World!〜」遠藤浩輝著、講談社、1997年発行
Comfortable hole, bye

parcel では7月1日より、リラ・デ・マガリャエスと土屋麗による二人展 ”Comfortable hole, bye”を開催致します。

リラ・デ・マガリャエスはロサンゼルスを拠点としながら、繊細な刺繍表現を使ったテキスタイルの絵画作品を中心に、陶芸、ウール、ビデオなどを通して、幻想的かつ遊び心のある作品を制作しています。また、土屋はグラスゴーを拠点に、明快なモチーフを用いたユーモアラスな陶芸作品やビデオ、パフォーマンス作品など精力的に発表を行ってきました。グラスゴーのアートスクールで親交を深め、昨年メキシコのレジデンスで再会し、2人にとって念願であった初となる2人展を東京で開催いたします。活動拠点や手法、作風は異なりますが、「色気のある歓喜」と形容されるように、それぞれの作品には生への歓喜、欲望、ファンタジックな遊び心が現れています。この機会にぜひご高覧ください。


社会的なルールが破られる瞬間というのは常に存在します。皮肉めいたやりとりが突然怒りの火花を散らす瞬間。オチまでの長々とした展開と期待感が恥ずかしさへと溶けていく瞬間。最初に抱いた嫌悪感が倒錯した好奇心へと変わる瞬間。起こった瞬間に正確に捉えることはできませんが、一度この閾を超えると、なかったことにはできないのです。予想された行為が受け入れられなくなり、規範がタブーに滑り込む瞬間とは、具体的に何が起こっているのでしょうか。もしかしたら、それは私たちが衝動的な決断を下した結果か、それどころか全く決断しないことを選んだ結果かもしれません。社会的なエントロピーに身を任せることで、正統性の重荷から解放されるのです。時にはその壊れた状態に留まることがとても気持ちいいものなのです。

この展覧会は、このような瞬間に泳ぎ込んでは出て行き、不安の戦慄とゆっくりとした解放感を持ちながら、行動の論理の境界を求め、浸透させています。陶器のオブジェやテキスタイルの作品の数々は、常に平凡と非凡の線引きの間を行き来し、その境界線を陶酔的で夢幻的な熱狂で軽々と超えていくのです。

Shipwreck, 2023, Glazed ceramic, Urara Tsuchiya

土屋の光沢のあるパステルカラーの器からは、一種の色気のある歓喜が溢れ出していて、そこには裸の人物がプールや水路を流れ、非常に可愛らしい動物たちと無邪気に触れ合っています。アザラシ、イルカ、犬、豚、カワウソ、クマ、そしてお互いの間に姿を寄せ合っているのです。これは恋人同士の行動なのか友人同士の振る舞いなのか、どちらにカテゴライズしたとしても同じくらいに不条理に感じ、これら特定の組み合わせにおける不器用で肉感的な一体感を説明するにはあまりにも過剰であり、それでいて足りないと感じます。ただし、すべての存在に対し愛情が均等に分配されているわけではありません。一例として、ある女性の姿がグループから離れて、目の高さで手に持っているデバイスを見つめています。彼女は満足しているようですが、彼女の孤立した姿は私たちに警戒心を抱かせます… 「ORGY中に自撮りをするような女子にはなるな!」と。世界はあなたを中心に回っていないと言われるかもしれませんが、この純粋な快楽追求の瞬間には本当にそう感じることができるのです。

Beginner(3), 2022,Dyed fabric, silk, and thread, Lila de Magalhaes / Courtesy of the artist and Deli Gallery, New York, Mexico City

デ・マガリャエスの血のような赤い板には、女性とミミズの間である種の小さなドラマが繰り広げられています。大多数の動物よりも、ミミズは地上の存在を自然体で象徴する傾向があります。彼らのシンプルで節々のある生体構造は、機能と感覚だけで、人間のような心配や疑念、自己否定の試みは一切ありません。でも、ここではその無気力さはまったくの逆です。これらのミミズも人間を象徴しているのです…圧迫感に悩まされ、閉所恐怖症で抑制されています。私たちは覗き役として異種間の不安を抱えた家庭(ドラマ)の瞬間に立ち会ってしまうのですが、そこから簡単に逃れることはできません。いくつかのテキスタイル作品がそれに対するある種の解毒剤を提供しています。柔らかく輝く穴で貫かれ、絹の層の奥には染められた綿のベッドシーツが現れます。ミミズのような曲線と波紋が再び現れますが、今度はそれらが一番柔らかくて暖かいゼリーの中に抱かれています。女性が横になっていると、羽を持つ生き物が彼女の口からミミズを抜き出しています。ミミズは彼女の中にいて、彼女と彼らは一体化しています。これによって、私たちはいつもミミズが感じているものを少し垣間見ることができます。周囲と一体化する至高感、自分の中に、自分の上に、自分の外にある基質に浸ることの快適さと自由さ、すべてが一度にある感覚です。

この展覧会の作品の中には、罪悪感なしに堪能できてしまう誘惑がたくさんあります。人間と動物、さらには自然の力との関係が、それぞれのスピードで、独自のルールに従って広がっています。これらの親和性について考えると、どんな存在のスタイルもまったく不自然とは言えません。それはしばしば自然そのものではなく、社会的に受け入れられるとされてきたもの、つまり定石とされてきたものとの対比で定義されています。しかし、この展覧会が証明するように、地球上での創造性は、私たちが作り上げた社会的な規範を無数の方法で覆すことができるのです。そして、それらの規範が破られるとき、私たちはそれを修正しようと急ぐ必要はありません。

文:Jeanne Dreskin | ジーン・ドレスキン

WHEREABOUTS

山内聡美は音楽、ファッション、その他カルチャー誌などへの様々なコミッションワークを行いながら、自身の作品を10年以上に渡り発表してきました。近年は、現在拠点にしている東京をはじめ、幼少期を過ごしたフロリダや静岡などの様々な土地で撮影を行い、時代を感じさせる古びた看板や造形物、偶然でくわした少しおかしな状況や、人の気配のない建造物などを主なモチーフとしています。それらの写真は被写体の存在感が写実的に捉えられており、淡白なドキュメントのような表情も持ちながら、ノスタルジックかつ非現実的なイメージが表現されています。

 

また、山内が近年取り組む作品に、スマートフォン画面のスクリーンショットを元に制作しているシリーズがあります。素材となっているのはAIカメラによって道に沿って無感情にスキャニングされ、場所の情報を伝えるという実用的なインターネットツールとして無数に存在する画像ですが、時に構図や色のバランスが偶然的に整った、山内にとっての「完璧な瞬間」に出会います。この作品シリーズは、山内自身の幼少期の朧げな記憶を元にアナログカメラで撮影した過去の写真作品と、インターネットのマップ上に無数に存在する画像をリンクさせ、インターネット上で発見する「完璧な瞬間」にどこかノスタルジーを感じながらキャプチャーしていくことから始まっていますが、その懐かしさは本物の記憶とどこで結びついたものであるのか定かではありません。そして、それらのキャプチャーされた画像に対面した鑑賞者は、写真が撮影された背景に想像を広げ、撮影者が写真に収めたノスタルジックな感情を読み取ろうとするかもしれません。そこに説明がない限り、もしくは鑑賞者が注意深く鑑賞しない限り、単なる「綺麗な景色を写した写真」として受け止められ、そして多くは見過ごされ、ドキュメントされた写真・鑑賞者の間には大きなすれ違いが生じています。

 

今回発表する作品の素材となっている画像も山内にとっては何の縁もなく、訪れたこともない異国の風景で、スマートフォンの画面をスワイプさせるような淡々とした印象で並べられています。ギャラリーに訪れた鑑賞者は、まず作品を一目見て、やはり綺麗な風景写真として捉えるでしょう。そこから撮影者の意図を読み解こうと注意深く写真を鑑賞するかもしれませんが、その写真が撮られた日付や場所は鑑賞者には明らかになることはなく、場所や時間が分からない以上、現在・現実の場所の情報を伝えるインターネットツールの画像という本来の意味からも離れてしまっています。展覧会タイトル「WHEREABOUTS」とあるように、本展覧会の作品は特定の場所や時間を示さず、それらの写真は我々の感情にどこか軽い揺さぶりをかけるものではありながら、鑑賞者から非常に遠い場所のドキュメントとして残されています。そして、これらの作品は現実世界の出来事と、それらの情報を手のひらに入るスマートフォンの中で無限に手に入れることになった現代人のあり方を示しているようでもあります。

90’s and : /or 20’s

「日本のマンガやアニメには戦前の前衛美術の遺伝子が流れている。ネオ·ポップムーヴメントは、絵画として、その遺伝子を美術に復活させることが目的だった。1990年にMoMAで見たHigh and Low展が背中を押してくれた。」太郎千恵藏

この度PARCELとparcelの両ギャラリースペースを使い、太郎千恵藏の1990年代の絵画と彫刻、そして新作を同時に展示する展覧会を開催いたします。太郎千恵藏にとって、絵画を中心とした東京での個展は実に15年振りとなります。

太郎千恵藏は、1980年代にニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・アートで学び当時のウォーホールやバスキアが活躍するニューヨークのアートシーンに遭遇、1991年に「見えない身体展」(レンパイア・ギャラリー、ニューヨーク)でデビューを飾り、Flash Art等の美術雑誌をはじめ、アンディ・ウォーホールのインタビュー誌などに全面で取り上げられます。1992年にはポスト・ヒューマン展に参加、ヨーロッパの5つの美術館を巡回し、ニューヨーク、SoHoでの個展を皮切りに国際的に作品を発表してきました。1994年からは古典絵画をバックグラウンドに、アニメや特撮のモチーフを取り入れた絵画の制作を開始、その後マンガをモチーフとしたペインティングに発展していきます。それらの作品は、ブルックリン美術館、東京都現代美術館をはじめ、国内外多数の美術館にて展示され、奈良美智、村上隆とともにネオ・ポップムーヴメントの中心人物の一人として活躍してきました。

美術評論家のジョシュア・デクターは、太郎の絵画についてこう解説しています。「単なるポストモダン理論の夢想ではなく、むしろ日常の経験の具体的な表現です。出来事、回想、動き、停滞、生物学、テクノロジー、のすべてが同時に展開しているように見えます。それはあたかも、メディア表現の風景と心の領域が、非線形のアマルガムに収束し始めているかのようです。太郎千恵藏の作品はファンタジーと現実体験がダイナミックに交差するこの奇妙な実存の状態をアレゴリーにしており、私たちの世界認識の関係性は、日常に再覚醒した夢を強要されます。太郎千恵藏にとって絵を描く行為は、テレビ言語の残存記憶と復縁するという意味をもっています。ある意味で彼は、ポップカルチャーのゴーストを絵画のなかに立ち上げることを可能にすることで自身の「内なる子供」へのアクセスを可能にしてきたのです。(太郎は)キャラクターを単なるポップなアイコンとして盗用しているのではなく、リファレンスが不安定なレイヤーになった異質の画面に現れた、シンボリックな実体として描いているのです。」 (引用:太郎千恵藏:ハイブリッドワールドの触覚の表出1999)

本展では、新作のペンギンをモチーフとした絵画と1990年代の絵画をリミックスした作品が展示されます。日本初公開となる War / Pink is color of Blood(1996)は、1996年のニューヨークのサンドラ・ゲーリングでの個展で発表、ヴァージ二アやオハイオの美術館で開催され、マイク・ケリー、ポール・マッカーシー、ジョイス・ペンサートも参加したプリズームド・イノセント展でも展示されました。ターナーの難破船という絵画を背景にし、アニメのロボットとレンジャーをサンプリングした本作は、ドローンが地上を爆撃する21世紀の戦争のリアリティを先取りした予言的な作品です。その他にも1999年のサンドラ・ゲーリングでの個展で発表され、2009年岡本太郎美術館での岡本太郎の絵画展内の特別展示「TAROVS TARO」でも展示された、Father and Son III Schiphol Airport(1999)などの90年代の太郎千恵蔵を代表する作品を組み込んだ展示構成になっています。

1990年頃、東京にいるときは村上くんや小山くんと毎日のように会って、アートワールドとマンガとアニメの話をしていた。そして1993年に、僕のケルンでの展覧会にやって来た奈良くんにも声をかけた。それがはじまりだった。」太郎千恵藏

哲学者マルクス・ガブリエルの著書である「なぜ世界は存在しないのか」では、現実の物体もユニコーンも存在し、わたしたちは実在と虚構の無数の意味の場のレイヤーを通過している存在だと言っています。太郎千恵藏はそれを20年前に絵画で表現していました。1990年代の太郎の絵画は、現在でも革新的な作品で、その革新性は新作の絵画に受け継がれています。ハリウッドのアニメーションからピングドラムまで、幾度となく表現されているペンギン。太郎が描くペンギンは、パブリックな心象風景から現れる、シンボリックなわたしたちの姿なのです。この機会にぜひ太郎千恵藏の作品世界に触れて頂けると幸いです。


展覧会にあわせて以下のトークイベントをPARCELにて開催いたします。
トークイベントは入場無料となっており、参加ご希望の方はcontact@parceltokyo.jpまでご連絡ください。ご予約がない場合でもご入場できますが、席数に限りがあるため定員を超えた場合は立見となる場合もございますので、ご了承ください。

・3月25日(土)15:00-
90’s and or 20’s=現代思想とアート、あるいはラディカルについて
千葉雅也(哲学者、立命館大学教授)x 太郎千恵藏(芸術家)

・4月2日(日)17:00-
「シュールリアリズムと太郎千恵藏の絵画」
大谷省吾(美術史家、東京国立近代美術館副館長)x太郎千恵藏(芸術家)

冷蔵庫は□かった 。

「冷蔵庫は□かった 。」
(擬人卵族のハンプティダンプティが初めて宇宙に行っていった一言)

童謡の中ではっきり明示されているわけではないが、このキャラクターは一般に擬人化された卵の姿で親しまれており、英語圏では童謡自体とともに非常にポピュラーな存在である。この童謡の最も早い文献での登場は18世紀後半のイングランドで出版されたもので、メロディはジェイムズ・ウィリアム・エリオット(英語版)がその著書『わが国の童謡と童歌』(1870年刊)において記録したものが広く用いられている。童謡の起源については諸説あり、はっきりとは分かっていない。
もともとはなぞなぞ歌であったと考えられるこの童謡とキャラクターは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』(1872年)をはじめとして、様々な文学作品や映画、演劇、音楽作品などにおいて引用や言及の対象とされてきた。アメリカ合衆国においては、俳優ジョージ・L・フォックス(英語版)がパントマイム劇の題材に用いたことをきっかけに広く知られるようになった。現代においても児童向けの題材として頻繁に用いられるばかりでなく、「ハンプティ・ダンプティ」はしばしば危うい状況や、ずんぐりむっくりの人物を指す言葉としても用いられている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この世界の不明瞭さを子供の頃からずっと拭えていないが、自分から生み出された作品は過程も含めてフィジカルに確認できる。それでも時間が経ち場所が変われば少なからず疑念が生まれる。parcelの空間から受けるそれはガガーリンが言った名言「地球は青かった」の様に不確定で興味深い。(この名言の由来にも諸説ある)
– 東城 信之介

(さらに…)

橋本 知成 | Tomonari HASHIMOTO

橋本は、独特な金属質のテクスチャーを持った重厚感のある陶芸作品を制作し、これまで国内外で数々の展覧会に参加・作品を発表してきました。

球体を含めた巨大な幾何学形態、モノリスのような作品は、全て手捻りで土を積み上げて成形され、最終的に金属質が高い釉薬を施した後、レンガを積み上げた巨大な窯でゆっくりと焼き上げられています。無機質なフォルムでありながらも、手でつくられた造形には巨大で重厚な物体と人間の身体的との対比があり、美しい金属質の表面は光のあたる具合や長い時間の経過の中で表情を変えていきます。

本展では、四角柱の陶器作品やモルタルを組み合わせた大型作品を中心に発表いたします。ソリッドで重厚感のあるキューブは重力から放たれたのか、どこか別の場所から長い年月を飛び越してここに置かれているのか、何かの意味を持って作られた碑のような印象と同時に、素材の対比と組み合わせによって生み出される違和感と軽やかな浮遊感を持ちあせています。

幼いころ夢中だった折り紙やプラモデルに寺社仏閣。彫刻家の父が作る等身の石膏像やブロンズ像を日々目にしてきました。家の窓から見える庭の草木や、その奥に広がる山々、車窓からの移りゆくランドスケープを見ることが好きでした。こういった幼少期からの経験が制作の背景にあります。
仕事に対する姿勢として、個人的な考えや思いとの距離感を意識しながら、それでも残る作家の熱量が感じられるものを作りたいと思っています。数字では計算できない揺らぎ、ものの佇まいや存在を取り巻く環境を大切にしています。 - 橋本 知成

Hey, River Snake C’mon.

parcelでは、8月27日より、KINJO 個展 “Hey, River Snake C’mon.” を開催いたします。PARCEL JUNCTIONとして2020年9月に初個展を開催して以来、PARCELとしては2度目の個展開催となります。

本展では、暗闇に光る目を描いた“One’s eyes”、生き物やアニメのシーンをモチーフとした作品、それらをパッチワークした作品シリーズなど、大小のキャンバスをインスタレーションとともに展示いたします。

暗闇の中に光るキャラクターのような目を描いたKINJOの代表的なシリーズは、作家自身が幼少期に他人の目や向けられる視線に苦手意識を持っていたことが原点にあります。歳を重ねることでその視線に対する恐怖心は薄れていきましたが、当時の意識は心のなかに留まっており、目がモチーフの作品を作るようになりました。KINJOの描く目は抽象化され、キャラクターやアニメを通して既視感があるからこそ我々はそれを即時に「目」だと認識できます。また、絵画の中にある目はこちら側のどこかを見ているようですが、全体像は闇に隠れ明らかになっていません。視線を注ぐ側・受ける側の両者には間があり、視線を受ける側は相手の姿かたちや目線の行き先を知らないままキャンバスの向こうに想像を巡らせているのです。

また、生き物をモチーフとした作品シリーズは、KINJOの親族が様々な種類の動物を多く飼育していることから、身近な存在の一つとして描かれています。そこには人命より寿命の短いペットが家に迎えられ、死に、繁殖してまた新しく生まれるというサイクルがあり、同時にその周囲ではペットを飼うこと自体についての議論も起こります。しかし周囲の意見はペットの存在と密接にある作家の感情とは少し離れたところにあり、また飼い主ではなく時折飼育を手伝っている作家に対して直接ぶつけられるものでもなく、そこにはKINJOにしか感じ得ない、他人との意識のずれやすれ違いが生じます。

アニメのシーンが描かれている作品も同様に、KINJOの扱う一見キャッチーなモチーフは、記号的なメッセージではなく、作家自身のルーツとも言えるような個人的な事象の表現として描かれています。それらはキャンバスの上で描いては消され、時に異なる断片的なモチーフが接ぎ合わされます。なにかの目、生き物を飼うという行為に伴う社会性、フィクションと現実との関係性など、それらを描く行為を繰り返しながら、他者との感情のすれ違いやコミュニケーションに生まれる歪み、そしてその中にいる自身に対しての客観的な視点をキャンバス上に描き出しているのです。

 


 

先日、姉からミーアキャットが4匹生まれたという連絡があり、そのうちの1匹が産まれてすぐに亡くなってしまったらしい。色々な動物を飼っている人が身近にいると産まれたり、亡くなったり、また新しく増えたりとのサイクルが早く、近しくある。その頃ちょうど見ていたアニメが1話完結のループを繰り返すストーリーであり、繰り返し現れるThe Endの文字がやたら目の裏に焼きついて残った。


地元の仲間達が集まると僕の家族が飼う動物の話題が盛り上がるが、決まってある友人が怪訝な顔をする。彼は、人が動物を飼育すること自体に問題を感じるらしい。僕の家族は近所では少し有名で、まるで犬を散歩させるように街の中でミーアキャットを散歩させている。他にもフクロウや蛇など色々な動物が家にいて、最近は90度に反り返ったポーズを取るデカいトカゲが新しく仲間に加わった。友人の気持ちも理解できるが、変わった動物に関われる生活が気に入ってもいる。

自分は、どっちかに偏るのを避けるきらいがある。どうしてかはわからない。
その理由を理解しないといけないとも思わない。
なんでかは、わからない。そんなわからない自分の感情を言葉にすることもできない。
できないけど、できるようにならないといけないというわけでもない。
できなくてもいいし、できてもいい。
言葉にできたら、ラッキーくらいに思ってる。
でも、そうやって言葉が出てきた瞬間、その出てきた言葉以外のものが落ちて無くなっていってしまう気がして、その落ちていきそうな言葉とそれに絡まっている感情をなんとか落とすまいとしてしまう。そうやって考えているうちに、いつの間にか、自分の作品たちが言葉じゃない言葉で喋ってくれている。そんな気がする。

– KINJO

parcelでは、箕浦建太郎 個展「せ」を開催いたします。2020年1月PARCELにて開催した個展「き」以来、2年ぶりの個展開催となります。
幼い頃より箕浦は漫画やアニメ、ゲーム、映画、音楽など様々なカルチャーに触れながら、主に絵画、音楽を中心にジャンルの境界を感じさせない表現を続けてきました。それらを通して得た経験が凝縮し、そして描き続けることで要素が削ぎ落とされていき、現在の生き物のような何かが形として現れている箕浦の作風へと繋がります。描かれているそれらが何なのかははっきりしませんが、複雑に重なった多彩な絵具や塗料の絵画空間の中で、一言では形容し難い曖昧な表情をして佇んでいます。また、近年精力的に制作している陶器の作品もプリミティブな表情を持ち、掘り起こされた土器のような素朴な重量感や、古代に何かしらの対象として祀られていたかもしれないような独特な存在感を放っています。
絵画作品、立体作品を通して、箕浦の作品の根底には生き物としての原始的な感覚があります。それは絵画としての画面を整えるバランス感覚や整理・洗練された造形美による感動ではなく、物事や感情に名前や言葉をつける以前から人間が体を通して得る物理的・原始的な感触に近いものであり、絵の中の「彼ら」は筆や絵の具、粘土の質量や質感を含みながら、生命を持った何かとして、時にアンバランスな姿かたちでその存在を表しているのです。